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湘南 ムコタに関する旅行記

2010年 夏休みの過ごし方 その②...

2010/09/07 10:09:37

今年の夏はどこに出かけるでもなく、何となく過ぎていきました。

異常気象のせいか?持病の喘息も酷く毎日、毎晩不安な日々を過ごす中、懲りずに出歩く私の変なバイタリティに
我ながら呆れ気味の行動を振り返ってみました。

でもお陰で近場にこんなに良いところがあるんだ・・・って再確認。 

湘南の夏はローカルには近寄りがたい煩わしさはあるものの、夏の海に久しぶりに癒されました。

横浜線の歴史的痕跡を探す ~東神奈川-八王子間編 明治領歌【...

2010/09/05 09:09:25

横浜線は一昨年開業100周年を迎えました。


明治期から昭和前半まで我が国最大の輸出物と言えば「生糸」です。
当時、生糸は東北北海道沖縄方面を除き日本本土各地で生産されておりましたが、国内外でも高評価で1級品認定されていたのは長野県産品と群馬県産品だった。

件の物は製品化された上で外貨獲得の重要物資として横浜港から主に北米へと輸出される。
群馬県産品は群馬から横浜までの輸送ルートが、日本鐵道(高崎→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と単純で運賃も廉価で済んだのに対し、長野県産品は、逓信省鐵道作業局(長野県内各駅→八王子間)・甲武鐡道(八王子→新宿間)・日本鐡道(新宿→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と数社に跨る事から運賃が嵩み群馬県産品との競走上、不利にならざるを得ず、明治30年代後半ともなるとその差が歴然として深刻な状況が招来した。

此の為に八王子から横濱に向け鉄道建設を願う声は日に日に高まったもが、明治政府は横濱線が政府主要建設予定路線だったにも拘らず、日露戦争の結果、戦費収納を優先とし財政的余裕が無く、故に、民間出資に拠り横浜-八王子間の鉄道会社を設立する方向に固り、紆余曲折の後、明治35年(1902年)8月23日に茲に正式に『横濱鐵道株式會社』が設立され本社は横濱市青木橋に設置され、直ちに鉄道運営に必要な機関車、軌条、機材類を米フレザー商会横浜支店を仲介して発注した。

当時は現在の如く簡単に入手すべき可能な時代などでは無く、船便での発注手配であり、軌条に至っては、明治39年(1906年)製造になる。

明治41年(1908年)9月23日に東神奈川-八王子駅間全線が開業した。
然し、横濱鐵道は開業の時点で企業設立時の目論見とは大きく異なる事態が生じていた。

即ち、政府は日露戦争後に於ける全国に存在する私鉄の国有化を目差し、明治39年(1906年)3月31日に『鐵道国有法』(法律第17号號)を制定し該法律に基づき、甲武鐵道が同年10月1日、日本鐵道が同年11月1日に政府に拠り買収された為に、バラバラだった運賃計算が一貫通し計算が可能となり利用者からは歓迎を受けたが、反面、横濱港への短路とは言え高額な運賃を支払う横濱鐵道利用のメリットが無くなった事で当初の目論んだ数値より遙かに低い輸送量しか得られなかったからである。

当時は横濱鐵道が将来の政府建設予定線である事を理由に早くも明治43年(1910年)4月には政府が借上げて運営される事となり運賃が鐵道院路線と同額となり通し計算が可能になった事から利用者にとってメリットは大きいものだったと推定される。

横濱鐵道開業の頃より国内知識層間に軌間拡大論が展開される。

即ち、明治政府は鉄道建設開始にあたり英国人設計担当者より日本人担当者に対し軌間採用設定に就いて質問した処、件の日本人担当者は業務知識絶無な上に内容に就いて理解も吟味をもし得ず単純に狭軌を採用する旨、回答した為に、爾来、我が国で軌間と言えば狭軌を採用した事で此れが今日でも主流となる。

然るに、輸送上に関し狭軌(1067㎜) 対 標準軌(1435㎜)はワイドな標準軌採用の方が何かと有利たる事は自明の理であり、明治期後期ともなると国力に余裕が生じると輸送量不足と拡大化とを求める声が国内に台頭する。
政府としても広軌化論を無視放置する訳にもならず、取り敢えず借上げ運営中の横濱鐵道原町田(現 町田)-橋本駅間施設を改築して走行試験を試行する事となり、大正6年(1917年)5月23日に件の区間を3線化、若しくは、4線化工事完了を以って実験を開始する。
広軌化改造工事に拠る結果は、蒸気機関車の広火室化の容易、燃費向上、速度抵抗軽減等々、狭軌より標準軌の方が約32パーセント増の効果が確認され、広軌化に拠る経済効果は大なりと判定されたにも拘らず、政変の為に西園寺内閣は総辞職を余儀なくされ改軌案賛成の民政党から対立する政友会が政権を獲得した為に大蔵省に依る予算計上まで完了していたにも拘らず広軌化計画は頓挫する。

政友会の主張は「広軌化改造に要する諸費用を以って地方諸路線新設を優先すべし、云々」との意見を開陳し反対したが、即ち、政友会の主張に沿って建設された地方路線は此の時期から昭和初期にかけて全国に及び、件の路線の殆どが当初から人口希薄地域を通す赤字路線であり、戦後になり此れら路線を継承した日本国有鉄道の財政を逼迫させ破綻させた大赤字の萌芽たる地方赤字ローカル線問題は此れら路線建設の結果を招来させた。
即ち、政友会の主張と裏腹に実際には国益の為の路線建設などでは無く、現実は政友会代議士の露骨な利権追求の為の票田建設と言ふ方が正しく、昭和初期に政友会大物衆議院議員で長野県選出の小川平吉(おがわ へいきち)(明治3年(1870年)1月2日~昭和17年(1942年)2月5日)は田中義一(たなか ぎいち)内閣の鐵道大臣在任中に私鉄路線建設申請に関する免許状乱発交付で露骨な贈賄行為を反復させた事で世に言ふ『私鉄疑獄事件』を起し、小川は鐵道大臣経験者と言ふ親任官職にも拘らず司法検察当局に逮捕拘留され裁判に付され大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定し実刑に処され位階剥奪されるが如く、此の手の政友会代議士は国益より利権に走狗する行為が露骨で『我田引鉄』を得意とした。

政友会の後塵直系組織たる現在与党たる○○党が、度々の利権報道と司直強制捜査で先般も贈賄容疑で元公設秘書が逮捕拘留されるが如きは、此の悪しき伝統が根をおろしているものと考えるを得ず、大所高所から国民の目線をして誠に遺憾な行為といわざるを得ない。

結局、標準軌採用は見送られ、本格的採用は昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線開業まで留保される。

標準軌改築工事が実施された同年10月に政府は横濱鐡道全線を正式に買収させ政府資産とする事に決定し、茲に横濱鐡道は正式解散し、官有たる『鐵道院横濱線』として新たなる出発をします。

国立公文書館に保存されている当時の公文書本文に政府の本心が垣間見れる。

因みに文中の「新宿線」とは現在の山手線です。


横濱鐵道借受ノ件

別紙内閣総理大事請議横濱鐵道借受ノ件ヲ審査スルニ右ノ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決セラレ可然ト認ム


指令書

横濱鐵道借受ノ件請議ノ通   明治四十三年二月三日(印)

運第壱百弐拾壱号

横濱鐵道借受ノ件

横濱鐵道ハ官設鐵道東海道線ト中央東線トノ間ニ位シ新宿経由ノ官設線路ニ対シテハ競争ノ捷路タルヲ以テ之ヲ政府ニ借受ケ東海道ト中央東線トノ連鎖トシテ管理スルコトハ独リ新宿線ノ輸送上ニ於ケル負担ヲ軽減スルノミナラス東海中央ニ線ノ運輸ヲ圓満ナラシムルモノニシテ頗ル得策ナリト認ム且同會社カ既ニ許可ヲ得タル横濱港内ノ延長線及出願中ノ海面埋立ト本院ノ計画ニ係ル横濱港ノ海運連絡ト相待テ其ノ効用ヲ完フスヘキモノナルニ依リ
其等ノ権利ヲ継承シテ工事ヲ遂行スルノ必要アリト信テ大略左ノ条條件ヲ以テ横濱鐵道會社ト契約ヲ締結セントス

一)該鐵道ノ運輸営業ニ要スル各種建造物車輛及附属品ヲ伴セテ借受クルコト
二)天災事変ニ起因シ損害ヲ来シタル場合ノ各種建造物及車輛等ノ修理保存ハ一切政府ノ負担トスルコト
三)借用料ハ該鐵道ノ営業成績ト該鐵道ヲ政府ニテ管理スル為メ官設鐵道ノ受クヘキ利益トヲ参酌シ其金額ヲ定ムルコト
四)該鐵道ノ借受期限ハ壱ケ年トシ政府ノ都合ニ依リ同一ノ條件ヲ以テ通計弐拾箇年ニ達スル迄壱ケ年毎ニ契約ヲ更新スルヲ得ルコト
但シ借用料ハ契約更新ノ都度之ヲ協定スルコト
五)臨港延長線及横濱港北防波堤ニ沿ヒ港内ニ面スル埋立工事ハ政府ノ費用ヲ以テ施行スルコト
六)前號ニ依テ政府ノ投シタル費用ハ鐵道返還ノ場合ニ於テ現実ニ存スル増加価格ヲ會社ハ政府ニ弁償スルコト但シ海面埋立ハ返還セサルコト

右閣議ヲ請フ

明治四十三年一月十八日

内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎


横濱鐵道株式會社社長 朝田又七殿

内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎 殿


当時の山手線は現在の様に複々線で客貨が分離されてる構造にはなっておらず複線で電車を頻発運転させながら貨物列車を割込運転させる等、綱渡り的運転を強いられ、既に運転上で列車遅延は常態化し飽和状態だった。
また、政府としても横浜北港埋立構築は日露戦争後に於ける対外国策上必要不可欠要件であり、横濱鐵道借受は政府にとって正に一石二鳥効果を得る事が可能だった事が垣間見える。

即ち、借与中に於ける民有所有物たる動産不動産諸施設に対する改造変更は、現財物に対する変更行為と言ふ、法的矛盾を生じせしめ、当時の内閣法制局の指摘を根拠に買収を決定させた。

後年、昭和初期に鐵道省東京-大阪間3等運賃と富士身延鐵道富士-甲府間3等運賃がほぼ同額とされ『富士身延鐵道』を政府於いて筆頭高額運賃軽減をはかる目的で借上運営中の諸設備向上を理由に鐵道省が改良工事に着手せんとして前述の指摘を受け工事中止をせざるを得ない状況が現出し、此れ以降、政府や鐵道省は民間鉄道会社を民設公営の厄介で中途半端な借上経営を止め買収実行の形態へと変化する。
例外的に借上げ形態を採用したのは京成電気鐵道上野公園(現 京成上野)-日暮里間で、大東亜戦争中に鐵道省本省の疎開先として選定され、強制借上げ後は狭軌に改軌し運用が中止され休車中の1、2等寝台車や1等展望車を搬入して防空壕代りに使用された。

殊に、昭和12年(1937年)7月2日に日華事変が勃発以降は、戦時軍事輸送体系円滑化の強化を目的として戦時買収が活発化する。
或る日、政府から会社に突然、代表者を鐵道省本省に招致出頭せしめる電報が送達され、本省に出頭した担当者は否応無く買収を受諾させられる事態が常態化する。
買収条件は一定期間売却禁止の戦時国債交付と被買収企業の解散禁止され、然も、戦後になり我が国を見舞った超インフレ経済に依り売却期限が到来した戦時国債の証券価値は紙屑同然になり、故に、各方面から買収資産価値変換と無償払下運動が勃興するが、大蔵省は解決済との頑な態度に終始し、被企業側は鐵道省や運輸通信省にタダ取りされたと言ふ根深い恨みを残す事になる。

東神奈川駅は鐵道院東海道本線と横濱鐵道乗換駅として鶴見-神奈川駅間に横濱鐵道が建設し完成と同時に鐵道院に無償貸与された。

よく横浜市民ですら東神奈川駅が存在するのに何故、(本)神奈川駅が存在せぬのかとの疑問を抱く様ですが、本来、神奈川駅は明治5年(1872年)7月10日に開業していた為に、「神奈川駅に対する東の駅」という意味合いで東神奈川駅と命名される。
然し、昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転し神奈川-横濱駅間が180メートル弱しか離れていない為に前日の10月14日限りで開業以来56年間の歴史に幕を閉じた為に東神奈川駅だけが残ると言う変則的事態になった次第。

鐵道省は東海道本線横濱-國府津駅間、横須賀線大船-横須賀駅間、及び、熱海線國府津-小田原駅間を1500ボルト直流電化する事に決定し、大正12年(1923年)に工事着手する。
然し、工事途中にして関東大震災に遭遇し電化工事は一時頓挫する事になったが、電化に関する要員教育研修を兼ね当時の横濱線に再び実験線としての栄誉を賜り、東神奈川-原町田駅間の電化工事を大正13年(1924年)6月15日に着手し同月26日に完成させると言ふ記録的突貫工事で完成させ直ちに試験運転を開始する。

東海道本線電化工事が完了し東京-小田原駅間等で試運転が本格的開始の前に横濱線電化諸施設は本来の用途目的を達成させた事から遊休化したが、横濱線沿線で地元有力者が此れら設備を見逃す筈も無く、再三にわたり鐵道省に対し件の区間の電化諸施設の活用策として横濱線列車を蒸気機関車から電気機関車牽引に変更要求が提議される。
然し、昭和初期に鐵道省は電気機関車の国産化を成功したとは申せ、当時の電気機関車1輌に於ける製造価格は大型蒸気機関車1輌と比較しても際立って高価な存在であり、概ね、EF52型電気機関車1輌の製造諸経費はC51型大型旅客用蒸気機関車2輌分に相当し、当時の震災復興中の鐵道省予算内での新造は困難な状態であり、且つ、当時の電気機関車保有数に余裕も無い事から鐵道省が横濱線に電気機関車を導入し電気運転するなど論外的見解と言ふべきであり、実際に不可能だったに相違無い。

然るに、大正末期頃から東京圏内に於いて1500ボルトに拠る電車運転が成功裡を修めると横濱線も電車運転の気運が盛上り、昭和7年(1932年)11月23日より概電化区間に於いて電車運転が開始される。
此の時に横濱線用として田町電車区より横須賀線を代表する半鋼製電動車モハ32型と池袋電車区より木造制御車クハ17型が東神奈川電車区に配転され2輌編成で運転される。
モハ32型には貫通幌が設置されていたのに対しクハ17型には幌が無くモハ32型の相手無き幌がフワフワと浮き上がりながら運転されました。
またクハ17型は老朽木造車故に走行中は車体がギシギシと唸り菱形に変形しながら走るものの、電化しても毎時1本の運転形態は変化なく継続する。

また残りの原町田-八王子駅間には昭和8年(1933年)10月1日からガソリン動車キハ41000型が導入され運用を開始される。

昭和12年(1937年)7月7日に勃発した日華事変の頃より横濱線を取巻く環境は隣接地域の小田原急行鐵道(現小田急電鉄)、相模鐵道と共に戦時体制に組込れてます。

即ち、当時の社会情勢は帝國陸軍に拠る施設拡充を行使したくとも人口密集地たる東京府内に於いて最早困難性を極める事態を招来し府内に存在する諸施設を東京近郊に移転させる必要性が生じ、殊に、陸軍士官学校が東京市谷台より相模原に移転した事も手伝い急に此の地に軍事施設が盛況を極めます。
特に、陸軍士官学校卒業式に臨席あらせられる昭和天皇御乗の御料車を含む6輌編成の御召列車が八王子経由で原宿-原町田駅間、若しくは、原宿-相模鐵道本線相武台下駅間に運転され、原町田、相武台下双方の駅に簡易ながら御召列車専用ホームと関係諸施設が構築された。
他方、横濱線沿線に軍事施設、軍需工場の進出に拠り旅行数が鰻登り的激増を見せ、東神奈川-原町田駅間では、従来の2輌編成の電車が毎時1本の牧歌的運転で事足りていたものが、朝夕は4輌編成15分間隔となり急に慌しくなる。

原町田-八王子駅間のガソリン動車の運転では各車輌に運転士を乗務させ先頭車運転士のブザー合図に拠り各車での単独運転させる為に最大3輌迄の編成しか組成出来ず、又、昭和15年(1940年)1月29日に大阪安治川口駅ガソリンカー脱線転覆火災事故で死者189名負傷者69名を出す大惨事が教訓となり、横濱線全線が単線である事も輸送上の障害を来たしていた為に、昭和16年(1941年)4月5日に残り原町田-八王子駅間も電化され横濱線全線で電車運転される。
また同日に陸軍省の要請に拠り駅間が長かった淵野辺-橋本駅間に相模原駅が開設される。
相模原駅開業に因み、同名駅が存在した小田原急行鐵道所属駅相模原駅は、鐵道省から開業を直前に重複を避ける為に『小田急相模原駅』に改称を命令される。

大東亜戦争中に於ける横濱線沿線最大の被害は、昭和20年(1945年)5月29日白昼堂々と実行された『横浜大空襲』に依るもので、横浜市内では東急電鉄湘南線黄金町駅、及び、神奈川区反町付近から東神奈川駅付近に至る地域の被害が他地域を圧倒し、東神奈川駅、及び、隣接する東神奈川電車区は米空軍B29重爆撃機から投下された1トン爆弾2発、及び、焼夷弾数十発が命中した為に、電車区では留置中の電車14輌全車と全施設が全焼全滅し、東神奈川駅では東急電鉄京濱線仲木戸駅付近で焼夷弾命中発火に拠り発生した火砕流が東神奈川駅構内に流れ込み、退避中の駅長以下駅員数名が此の火砕流に巻き込まれ、重軽傷者24名以外の7名は全員行方不明で遺体の一部すら発見されなかった事から此れら被災職員に対し戦時失踪者扱が認定され全員殉職扱いされる。
東神奈川駅は西口跨線橋、東部信号所、及び、ホーム擁壁部を除き此れ以外の全施設設備が被災全滅し、復旧に相当期日が見込まる事から、京濱線電車は駅復旧まで営業扱を中止され全列車が東神奈川駅を通過し運転される。
同年6月3日附を以って桜木町駅長飯田泰次郎氏が東神奈川駅長に赴任し混乱収拾をはかる。
横濱線は東神奈川駅構内が徹底的に破壊され電車発着が不可能となった事から現在の大口駅南側に相当する地点に古枕木を積重ねた臨時乗降場を設置し、横濱線電車は此処で八王子方面に折返し、利用客は新子安駅まで徒歩連絡で当座を凌ぐ。
横浜大空襲で当時大口に存在した日本大学専門部横浜校舎が全焼し、終戦直後に日吉と三島に移転転出した跡地が日本大学から無償提供を受け、此れを活用して昭和22年(1947年)12月20日に大口駅が開設される。

大口駅が戦争の申し子的感が無きにしも非ぬ存在だったにも拘らず、此れ以降、戦後の横浜線は既設駅間に雨後の筍の如く新規駅建設に明け暮れた感が強い。

横浜線は他線区に比較して複線化完成まで極めて遅動だった。
特に、小机以遠の工事が10年以上経過後に再開するが此れは複線化工事中の当時の日本国有鉄道の財政悪化が主原因である。
全線完成に至っては民営化後にずれ込む。

菊名-新横浜間 昭和42年(1967年)10月22日
新横浜-小机間 昭和43年(1968年)2月4日
大口-菊名間 3月12日
東神奈川-大口間 3月19日
小机-中山間 昭和53年(1978年)10月2日
中山-長津田間 昭和54年(1979年)4月1日
長津田-原町田(現 町田)間 7月15日
淵野辺-相原間 9月14日
町田-淵野辺間 昭和55年(1980年)9月27日
相原-八王子間 昭和63年(1988年)3月6日


現在の横浜線は純然たる通勤通学路線です。

然し、驚く勿れ、探せば歴史的遺産はアチラこちらに残存します。

現在、起点の東神奈川駅第2番ホームには横濱鐵道開業当時の側壁の関東煉瓦八王子工場製煉瓦積や上屋支柱に使用されている古レールは横濱鐵道開業当時の発注品の成れの果てです。


表紙の写真は東神奈川駅第2ホーム上屋支柱に残る横濱鐵道創業時に米国カーネギー社から輸入使用された古軌条群と横浜線用205系電車

SLの旅シリーズ第9回目,群馬県高崎駅-水上駅間を走る ”S...

2010/09/04 06:09:56

SLの旅シリーズ第9回目は群馬県高崎駅-水上駅間を走る ”SLみなかみ号 D51形498号機”です。
6月にSLやまなしとして、後藤式デフと鹿取式集煙装置の重装備のまま武装したD51に乗車できず、今回幸運にも武装したD51に乗車する事が出来ました。

 鉄ちゃん仲間で言われる、通称”後藤式デフ”後藤式デフとは「デゴイチ」の愛称で親しまれる蒸気機関車D51-498号機に、大型のデフレクター(除煙板)と集煙装置を高崎車両センターで取り付けられました。もちろんこの機関車の所属している機関区こそ高崎車両センターです。
 デフレクターはボイラー前部の左右に設置され、走行時に空気の流れを上向きに変えて視界を確保するためのもので、また、集煙装置は煙突に取り付けて煙の流れを誘導し、運転室や客車に煙が流入するのを防ぐ役割をする重要なパーツ。
 今回取り付けられたのはデフレクターが後藤式、集煙装置が鷹取式と呼ばれるもので、それぞれ国鉄時代の後藤工場(米子市)、鷹取工場(神戸市)で製作されていたタイプ。
 今回の姿のモデルとなったのは、関西線などで活躍し、現在は三重県の津市に静態保存されている1番違いの499号機からです。 集煙装置を取り付けた姿は、山間部の勾配が急な場所や、トンネルの区間の多い場所で見られ、鉄ちゃんの間では「重装備」と呼ばれております。45年ぶりにSLやまなしの運行にあたりD51-498号機がトンネルの多い中央線の甲府~小淵沢間で運行するにあたり改造されたと言われております。

 今回残念なのは渋川駅の撮影ポイント付近でJR側がフェンスを張ってあるため思うような撮影ポイントまで到達できず、またSLが渋川駅停車時間30分のため、その間に撮影ポイントまでタクシーで行く大忙しの理由で、残念ながら渋川の撮影は失敗に終わりました。電柱が邪魔をして思うような構図ができず、とほほ。。(;_;;;;)でした。

また気温が軽く30度以上ありかなりの猛暑でした。しかし、さすが水上駅は目の前が谷川岳で山風は涼しかったです。
そのような理由で今回のSLの旅シリーズは走行写真ではなく、主に整備風景に重点を置くことにしました。

SLが石炭を燃やしどこの場所から灰を出すか撮影してきました。目の前にD51が来るとかなりの迫力があります。

今回の旅のスケジュール

JR渋谷駅6:53発--湘南新宿ライン(高崎行き始発) 高崎駅 8:53着
高崎駅9:20前後にD51-498が入線し、客車に連結

SLみなかみ号 9:56発-----------渋川駅 10:34着 下車 
タクシーで利根川を渡り撮影ポイントまで10分
SLみなかみ号 11:05通過
無線タクシーを電話で呼んで大急ぎで渋川駅まで戻る

渋川駅11:36発 下り各駅停車 水上駅着 12:15
転車台風景は間に合わず、整備風景を撮影

水上駅 13:54発 上り各駅停車  津久田駅 14:23着
SLみなかみ号16:08通過
津久田駅16:16発 上り各駅停車  井野駅 16:45着
SLみなかみ号を渋川駅で追い抜かして井野駅で待つ
SLみなかみ号  17:13通過

井野駅 17:25発 上り各駅停車 高崎駅 17:31着

17:58発 長野新幹線 あさま580号 東京駅 18:52着

今回もまた乗り鉄、撮り鉄の旅をしてきました。

次回SLの旅シリーズ第10回目は、新潟県新潟駅-福島県会津若松駅間を走る磐越西線、SLばんえつ物語号の乗車と撮影の旅です。

横須賀線の歴史的痕跡を探す ~大船-横須賀間編 明治領歌【再...

2010/09/04 10:09:03

一般的に「横須賀線」とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちですが、実際は大船-久里浜駅間23.9kmを称します。

帝國海軍は横濱に所在した東海鎮守府が敷地狭隘と当時横濱に雑居していた仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し茲に横須賀鎮守府が改称成立する。

然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路は1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な悪路で馬車通行すら難儀する状態だった為に、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代横須賀鎮守府長官 中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日~大正5年(1916年)3月30日)より輸送手段改善が提議される。

更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日~大正5年(1916年)12月10日)、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)の連署で内閣に請議書を提出し鉄道設置が要請される。



国立公文書館に於ける該保存文書に、


鐵道建設ニ関スル請議書

相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌
海軍大臣 伯爵 西 郷 従 道

内閣総理大臣 伯爵 伊 藤 博 文 殿


の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が緊急性が窺いさせられる。

内閣総理大臣 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)から該鉄道建設調査を命ぜられたのが逓信省鐵道作業局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)である。

井上長官は調査結果を報告書に纏め内閣に回答した。


横須賀鐵道線路布設之義ニ附復命

右線路ノ撰定及費額調査為致候処横濱ヨリ東海道ヲ戸塚驛ニ至リ此里拾壱里延長合テ弐英里 左折シ鎌倉ニ入リ雪ノ下ヨリ長浦ヲ経横須賀ニ達ス此里程拾壱英里 延長合テ弐拾英里也 又他ノ線路無トキニ非ラスト雖モ難易比較シカ難ク結局該線ヲ以テ最良ノ経路トス 此間著シキ工事ハ隧道ニシテ其延長凡ソ拾弐参町 其他海岸埋築及橋梁ヲ架設スル等一切ノ費額壱英里ニ附凡四萬圓 合計八拾八萬ノ見込ニ有之 乍去横濱戸塚間ハ将来幹線ト見做 夫ヨリ横須賀ニ至るルノ間即チ全ク支線タル分多ク隧道ノ工事等有ルヲ以テ里程八本支等分ト雖モ其支線ノ負フヘキ費額ハ五拾萬圓計ニ可達歟 此ノ概算ニ基キ布設ノ可否御決議ニ相成候ハ直ニ実測取掛リ線路設置等ノ手順可相立右復命候也


政府の回答書では、

曩ニ陸海軍両大臣ヨリ其筋ヘ建議ノ趣旨ニ基キ同鐵道ヲ布設センカ為実測スル所ノ結果ハ其一端ヲ東海道鐵道戸塚藤澤間両驛間ニ起シ左折鎌倉ニ出テ長浦港ヲ経テ横須賀ニ達スルノ一線ヲ得リ 此間知性峻嶮ニシテ海濱ニ接シ工事極テ易カラス従テ山ヲ鑿チ海ヲ填ムルノ労賃少カラスト雖モ線路ハ稍直行ニ近ク然レト述カ如ク労賃ノ点ニ至リテ猶深ク講窮セサルへカラサルモノ有 他ノ数線ヲ試測スルニ更ニ迂回ニシテ工事一層困難ナルカ上労賃益加リ之ニ比スルニ本線ノ費額多ラスシテ径捷且水雷局所在ノ長浦港ヲ経ルニノ便利有ルニ依リ到底本線ヲ以テ最良ト見込撰定致候 尚横須賀ヲ貫テ便利ヲ計ラント欲セハ同所全体ノ市街ニ大改革ヲ与ヘサルヲ得スシテ其費用ノ多キ僅ニ家屋移転等ノ類ニ非サレハ曾テ確定スル所ノ四拾五萬圓乃至五拾萬圓ノ支持スル能ハサル所に附 目下此儀ハ計画不致候間 本線路ハ暫ク水平営ノ東南端ニ止メ候テモ船渠ノ用品及軍港ノ需要品ヲ運搬スルニ充分ト存候ニ附他ニ異議無ク弥本線ヲ採用スルニ決定セハ同水兵営ヲ経過セサルヲ不得モ幸ニ鑚鑿ノ地形ヲ変更スルニ要セスシテ二線ヲ布設スルニ不過候附 御承認相成リ候 図面相添ヘ此段及御照会候也

明治弐拾年十一月弐拾四日

逓信省鐵道作業局長官 子爵 井 上 勝

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌 殿
海軍大臣 伯爵 西郷従道 殿


此れらを加味検討した結果、資金不足を根拠に大蔵省の同意が得られず、取敢えず東海道線建設資金内から45万円を流用して建設工事案が設定される。

他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、鵠沼付近での人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置し横須賀方面に分岐させる事に決定し建設工事が開始された。

然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。

殊に、名越隧道は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には掘削工事中に落盤事故も発生し死傷者が生じた。

また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過激な国権回復思潮が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗圓覺寺と言えども路線通過の為には例外的存在では無く寺側は有無を言わさず例外は認められず、泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。
また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは成り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配頂点上に八幡踏切が設置された。

また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。

然して、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)1月に工事がほぼ完工し同年6月18日に正式開通した。

然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ同年3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転され此れが横須賀線運転史の嚆矢になる。

開業当初は大船-横須賀間の4往復45分で平均時速21.6キロ運転だったが、同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増発され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ平均時速27.8キロ6往復35分運転となる(平成22年現在、同区間最速列車運転時間は20分)。

横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。
然るに、明治42年(1909年)1月13日早朝、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、速度が遅かった為に死者こそ出さなかったものの多数の重軽傷者を出す。
事故原因は鎌倉駅信号担当助役が大船-鎌倉間に列車運行中たる事を失念し且つ列車時刻確認を怠り通票閉塞機の故障と独断し不正操作し通票を取出し上り列車機関士に交付した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線三澤付近で同様の事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生したが、三澤事故は必ずしも鎌倉列車正面衝突事故が教訓にならなかった事を証明する。

現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居前付近まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の安全面の観点から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は鎌倉駅を境に立体交差と築堤化される事で決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事起工し僅か4ヶ月で竣工した。

横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。
各区間複線化工事竣工は、

大船-鎌倉間 大正5年(1916年)9月13日

鎌倉-逗子間 大正6年(1917年)3月

逗子-沼間間 大正3年(1914年)8月12日

沼間-田浦間 大正9年(1920年)10月19日

田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日

また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。

また、横須賀線は大正13年(1924年)完成を目処に1500ボルト電化が決定し、明治期に構築の隧道では口径不足で架線吊張が困難な為に、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道口径拡大工事が施行したが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。

関東大震災発生時、横須賀線内で鉄道関連施設の破壊沈下等々、列車では鎌倉駅構内停車中の第32貨物列車や沼間隧道内走行中の第514旅客列車は隧道内で脱線転覆等の被害を生じ列車に乗車中の皇族 華頂宮博忠王殿下をはじめ乗客職員に少なからぬ死傷者を生じた。

特に、横須賀線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が横須賀駅下車直後に昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒200数名と列車から下車直後で崖下を通行中の一般旅客100数名合計300名余の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋めになり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され猛烈な悪臭と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が蝟集する惨状を呈した。

横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀間全線で復旧工事が開始され先ず単線で復旧された。
然し、田浦-横須賀間は側面崩落や吉倉隧道坑門破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅れる。
此の辺の描写は作家 内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)に依る短編小説『進水式』の記述に震災前後の横須賀駅前の状況が描かれている。

大船-鎌倉間 9月9日復旧

鎌倉-逗子間 9月10日復旧

逗子-田浦間 9月13日復旧

田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧


関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事は大正13年(1924年)4月に再開され翌年4月に完成する。
かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。

北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の圓覺寺住職 古川慧訓(ふるかわ けいくん)(慶応3年(1866年)4月4日~昭和31年(1956年)8月29日)、及び、建長寺住職 菅原時安(すがわら じあん)(明治5年(1872年)12月8日~昭和36年(1961年)3月6日)、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。

即ち、

        請訓書

当地ハ大船驛ト鎌倉驛トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、圓覺両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也
尚圓覺寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス

文面後半から横須賀線開通の際に於ける圓覺寺側の恨み辛みが読み取れる。


北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と圓覺寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償寄贈して駅が開設された。

昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車区から京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、客車時代のクロスシートに慣れた人々の目線にモハ31型のロングシートは沿線利用者の顰蹙と不評を買うが、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サロハ46型、クハ47型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換運用される。
余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更の上、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。
また、此れと同時に、大森駅停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は通過扱になる。

東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期まで芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。
他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。
特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽対象となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する。
此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、モニ3型木造荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる横須賀線専用新形式車輌が誕生した。

昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。
因みに、此のドックが如何に巨大たるか現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは横須賀第6ドック以外存在しない事からも明白である。
軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基づき大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され横須賀では信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更され、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の悲運の軍艦として記憶される。
此れら対英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降下させられ車内には制服憲兵が警乗した。
同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見可能該当ヶ所にコンクリート塀が設置される。

帝國海軍聯合艦隊司令長官 山本五十六(やまもと いそろく)(明治17年(1884年)4月4日~昭和18年(1943年)4月18日) 海軍大将は、ソロモン諸島方面を前線視察中に米海軍に拠り暗号が解読され予定行動が事前に露見していた事から待伏せに遭い機上に於いて米戦闘機の機銃掃射を受け戦死を遂げる。
山本海軍大将の戦死は正式発表まで伏せられ、御霊は聯合艦隊旗艦 戦艦武蔵 に拠り横須賀軍港に搬送され、横須賀到着を待って同年5月21日15時に政府より正式発表され特旨を以って元帥の称号を賜る。
翌22日に、横須賀駅から東京駅まで山本元帥の御霊を搬送する特別電車が運転される。

横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車4扉サハ78型に改造すべく大井工機部に入場改造中に海軍より将校乗車の為に2等車再連結が要請され4扉化改造工事は即座に中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。

横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車徴用され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出し乗車不可となる。
然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入整備させた他、些か泥縄的ながら3等車サハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。
後に、昭和24年(1949年)7月30日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になるが、但し、日本人が乗車着席している状態で進駐軍の米将兵が立っている時は席を譲り2等車から退車する旨、屈辱的表記が券面裏に記述されていた。

終戦直後から激増した乗客と故障が原因で激減した列車本数とに拠り、横須賀線は列車本数の確保すら困難な状況下に在った。
電車がモーター故障の為に自走不可能になり、已む無く、電車を電気機関車EF53型機に牽引させ最低運転数を確保する。東京の国電では他では中央本線国立-浅川(現 高尾)間で実施し、有余の車輌の整備を実施する。

昭和25年(1950年)に朝鮮半島に於いて朝鮮動乱勃発の頃、三鷹電車区配置の3扉セミクロスシートのモハ51型が関西に転出し、代りに、大阪からモハ42型、及び、モハ43型が田町電車区に転入し横須賀線で使用される。
同時に、モハ32型は身延線富士電車区や飯田線豊橋機関区に転出する。
また、此の年に、現在も伝統を残す車体塗装が横須賀線色に変更される。

久々に横須賀線専用車として昭和26年(1951年)1月に3扉セミクロスシートのクハ76型、モハ70型、及び、2等車サロ46型(改番後 サロ75型)が新製される。

昭和32年(1957年)5月14日17時22分頃、東逗子-逗子間池子弾薬庫前踏切(現 池子踏切)に於いて安全確認を怠り踏切内に進入した米陸軍第18憲兵隊所属トラックが折りしも進行中だった久里浜発東京行7両編成電車と衝突し、先頭車クハ76005型は脱線大破し、米軍兵士2名死亡、乗客乗務員米軍兵士15名が重軽傷する大事故が発生した。
大破したクハ76005型は台枠部も損傷し廃車も危ぶまれたが、大井工場に於いて台枠部以上を全金属車体で新製し車号もクハ76351型として再生した。
該事故は、前述の明治42年(1909年)1月13日早朝に扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で発生した列車正面衝突事故以来の大事故であり、関東大震災災害を除いた横須賀線内で発生した数少ない列車重大事故である。




表紙は第1円覚寺踏切から円覚寺境内を見る

2002年犬山・東京・神奈川旅行 江ノ島...

2010/09/03 02:09:53

江ノ電で江ノ島へ。
江ノ電は初めて乗りましたが、家の間を通ったり、海辺を走ったりと結構楽しいですね。
敬愛するサザンオールスターズのルーツ、湘南。
湘南といえば、江ノ島。
何年も関東に暮らしたのに、実は初訪問。
砂嘴を渡り陸繋島である江ノ島に上陸。
坂道が多く、道の両側にはおみやげ物屋がびっしりと建ち並ぶ。
今日は箱根を回って、名古屋へ帰るので、適当に散策を切り上げます。
またゆっくりきたいですね。
江ノ島からは、富士山もきれいに見えました。

<2002年犬山・東京・神奈川旅行全行程>●:この旅行記の位置
3月31日 名古屋空港出迎え
4月1日 名古屋→犬山→名古屋
4月2日 名古屋→東京→横浜
4月3日 横浜→東京→ディスニーランド→横浜
4月4日 ●横浜→鎌倉→江ノ島→箱根→小田原→名古屋
4月5日 名古屋空港見送り
宿泊:
実家(名古屋)
横浜ユースホステル(横浜)

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