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湘南 関東に関する旅行記

横須賀線の歴史的痕跡を探す ~大船-横須賀間編 明治領歌【再...

2010/07/30 05:07:44

一般的に「横須賀線」とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちですが、実際は、大船-久里浜駅間23.9kmを称します。

帝國海軍は横浜に所在した東海鎮守府が敷地狭隘と当時横浜に雑居していた仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し茲に横須賀鎮守府が改称成立する。

然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路は1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な上に悪路で馬車通行すら難儀する状態だった為に、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代鎮守府長官中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日~大正5年(1916年)3月30日)から輸送手段改善が提議される。

更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日~大正5年(1916年)12月10日)、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)の連署で内閣に請議書を提出し鉄道設置が要請される。



国立公文書館に於いて現存する文書で、


鐵道建設ニ関スル請議書

相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌
海軍大臣 伯爵 西 郷 従 道

内閣総理大臣 伯爵 伊 藤 博 文 殿


の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が窺いさせられる。



他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、鵠沼付近で人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置して横須賀方面に分岐させる事に決定し工事が開始された。

然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。

殊に、名越隧道は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には落盤事故も発生し死傷者が生じた。

また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過剰な国権回復運動が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗円覚寺と言えども路線建設の前に例外的存在では無く寺側は有無を言わさず泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。
また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは為り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配を伴う頂点上に八幡踏切が設置された。

また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。

然して、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)6月18日に正式開通した。

然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に御臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転され此れが横須賀線運転史の嚆矢となる。

開業当初は大船-横須賀間の4往復45分運転で平均時速21.6キロだったが同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増便され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ6往復35分運転で平均時速27.8キロとなる。

横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。
然るに、明治42年(1909年)1月13日早朝、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、速度が遅かった為に死者こそ出さなかったものの多数の重軽傷者を出した。
原因は鎌倉駅担当助役が通票閉塞機を不正操作し通票を取出した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線三沢付近で同様の事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生し鎌倉列車正面衝突事故が教訓になっていない。

現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の観点で安全面から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は鎌倉駅を境に立体交差と築堤化される事で決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事着手され僅か4ヶ月で竣工した。

横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。

大船-鎌倉間 大正5年(1916年)9月13日

鎌倉-逗子間 大正6年(1917年)3月

逗子-沼間間 大正3年(1914年)8月12日

沼間-田浦間 大正9年(1920年)10月19日

田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日

また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。

また、横須賀線は大正13年(1924年)完成を目処に1500ボルト電化が決定し、そのままでは口径不足で架線吊張が困難な為に、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道口径拡大工事が実施されたが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。

関東大震災発生時、横須賀線内では鎌倉駅構内停車中の第32貨物列車や田浦駅付近走行中の第514旅客列車に脱線転覆等の被害を生じ、乗客職員に少なからぬ死傷者を生じた。

特に、横須賀線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が横須賀駅下車直後に昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒50数名の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋めになり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され猛烈な悪臭と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が飛び交う惨状を呈した。

横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀間全線で復旧工事が開始され先ず単線で復旧された。
然し、田浦-横須賀間は側面崩落や吉倉隧道坑門破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅れる。
此の辺の描写は作家 内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)に依る短編小説『進水式』の記述にそれとなく震災前後の状況が描かれている。

大船-鎌倉間 9月9日復旧

鎌倉-逗子間 9月10日復旧

逗子-田浦間 9月13日復旧

田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧


関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事は大正13年(1924年)4月に再開され翌年4月に完成する。
かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。

北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の円覚寺住職 古川慧訓、及び、建長寺住職 菅原時安、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。


即ち、

        請訓書

当地ハ大船駅ト鎌倉駅トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、円覚両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也
尚円覚寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス

文面後半から横須賀線開通の際に於ける円覚寺側の恨み辛みが読み取れる。


北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と円覚寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償提供して駅が開設された。

昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車区から京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、モハ31型のロングシートに沿線利用者の顰蹙と不評を買うが、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換される。
余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更の上、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。
また、此れと同時に、大森駅への停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は通過扱になる。

東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期は芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。
他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。
特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する状況なる。
此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、木造モニ3型荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる新形式車輌が誕生した。

昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。
因みに、此のドックが如何に大きいかは現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは第6ドック以外存在しない事からも明確である。
軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基づき大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され横須賀では信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更され、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の命運の軍艦として記憶される。
此れら対英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降させられ車内には制服憲兵が警乗した。
同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見される該当数ヶ所にはコンクリート塀が設置される。

横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車に改造すべく大井工機部で4扉サハ78型に入場改造中に海軍より2等車連結が要請され4扉化改造工事は中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。

横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車徴発され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出され乗車不可となる。
然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入させた他、3等車のサハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。
後に、昭和24年(1949年)7月30日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になるが、但し、日本人が乗車着席している状態で進駐軍の米将兵が立っている時は席を譲り2等車から退車する旨、屈辱的表記が券面裏に記述されていた。

終戦直後から激増した乗客と故障が原因で激減した列車本数とに拠り、横須賀線は列車本数の確保すら困難な状況下に在った。
電車がモーター故障の為に自走不可能になり、已む無く、電車を電気機関車EF53型機に牽引させ最低運転数を確保する。東京の国電では他では中央本線国立-浅川(現 高尾)間で実施し、有余の車輌の整備を実施する。

昭和25年(1950年)サンフランシスコ講和会議で我が国の主権が限定回復した頃、三鷹電車区配置の3扉セミクロスシートのモハ51型が関西に転出し、代りに、大阪からモハ42型、及び、モハ43型が田町電車区に転入し横須賀線で使用される。
同時に、モハ32型は身延線や飯田線用に転出する。
また、此の年に、現在も伝統を残す車体の塗装が横須賀線色に変更される。

久々に横須賀線専用車として昭和26年(1951年)1月に3扉セミクロスシートのクハ76型、モハ70型、及び、2等車サロ46型が新製される。




表紙は第1円覚寺踏切から円覚寺境内を見る

東海道本線の歴史的痕跡を探す ~横濱驛移設変転史編【建造中】...

2010/07/30 05:07:45

明治5年(1872年)7月11日に品川-横濱間が鉄道仮開業以来、横浜駅はその場所を3回移動している。

開業当初の横浜駅は現在の桜木町駅前広場付近に所在した事は広く知られているが、2代目横浜駅が旧東急東横線高島町駅付近に存在していた史実は横浜市民と言えども忘れ去られているのが現実です。

明治20年(1887年)7月11日に初代横浜駅から西に國府津まで路線が延長されたが、当時と言えど横浜駅の頭端式スイッチバック構造では運転扱上不便この上も無く、間も無く日清戦争勃発と共に軍用専用列車運転目的の為に陸軍省は初代横浜駅を無視し短路線建設で輸送の効率化を謀ります。
此れが現在の路線の原形です。
後に、廃止された神奈川駅から平沼町付近を経由して程ヶ谷(現 保土ヶ谷)に至る新線が開通以来、長距離列車は初代横浜駅を経由せず直行する。
短路線上に平沼(ひらぬま)駅が開設されたのは明治34年(1901年)10月10日で此れを機会に短路線は陸軍省から逓信省鐵道作業局に所管変更されたが、当時の平沼は葦繁る湿地帯上に在り人家も稀で夜ともなると漆黒の世界で時折追剥も出現する地であり、利便性から横浜市民は長距離列車は従来通り神奈川駅から乗車しており、明治45年(1912年)6月に新橋-馬関(現 下関)間に運転開始された我が国最初の特別急行列車も横浜駅には入線せず神奈川駅に停車した。

大正3年(1914年)12月19日、当時の鐵道院は平行す京濱電気軌道に対抗すべく品川-横濱間を複々線化し各駅停車列車の線路を1200ボルト電化工事を施工の際に神奈川-櫻木町駅間に高島町駅を開設し品川-高島町駅間を電化して翌20日より都市間用高速電車を投入し運転開始したが、試運転も無いに均しく、いきなり開業本番を迎えた為にトラブル続きで、止む無く同年12月26日に電車運転を一時中止するが、此の高島町駅こそ2代目横浜駅の嚆矢となる。
大正4年(1915年)5月10日から京濱線電車運転が復活し、同年8月15日に横浜市民の便を考慮して高島町駅にルネッサンス様式煉瓦造3階建の壮麗な建築物と共に開業したのが2代目横浜駅で設計者は東京駅や萬世橋駅と同じく辰野金吾博士が担当した。
2代目横浜駅は改札口を2階に設置して跨線橋で東海道本線と京濱線各ホームと連絡する現在で言ふ橋上駅構造で当時としては画期的且つ大胆な構造だったが、反面真夏ともなると通風が悪く冷房も無い時代故に駅全体が蒸し風呂状態だったとの古老の回顧も仄聞している。
櫻木町所在時代同様、駅構内では現在も桜木町駅構内で営業する川村屋(かわむらや)がレストランを営業し、浜っ子は市電や人力車で早めに横浜駅に到着し待ち時間を川村屋で食事を済ませ列車に乗り込むと言ふスティタスを確立させていた。
また、高島から程ヶ谷(現 保土ヶ谷)に抜ける貨物専用線は駅前を高架線で縦貫構造で、昭和4年(1929年)9月16日に廃止されるまで訪横者の目には煉瓦建築物の目の前に高架線が存在し威勢良く黒煙を吐き轟音を立てて走り抜ける蒸気機関車が貨物列車を牽き行き来する姿を目にし奇異さを感じたに相違無かったと思われる。
但し、2代目横浜駅開業と同時に平沼駅は廃止される。

2代目横浜駅開業に拠り石崎川を挟んだ駅本屋裏側は何も無い葦そよぐ湿地帯だったが次第に商業地としての形態が整備され平沼商店街(ひらぬま しょうてんがい)が形成さるに至ったが、関東大震災に伴う再開発で駅移転が決定的致命傷となり、現在ではすっかり衰退してしまったが、此の点では、大都市中心部に所在しながら栄枯衰退著しい例として、東京萬世橋駅や大阪湊町駅や片町駅所在地付近に共通する事例と言える。

櫻木町から高島町に駅が移転開業した際に当時の鐵道院が横濱(高島町)-櫻木町駅間の旅客営業廃止を検討していた事は当時の資料を検討する限り事実だったと考えられる。
然るに、当時の横浜駅は市内への入口拠点として駅前から市内中心部に対し市電が開業して輸送を独占状態であり、鐵道院は都市間輸送たるインターバン輸送を主とする指向であれば良く、サバー輸送たる短区間輸送を行う必然性は何ら見出し得なかったものと思われる。
即ち、2代目横浜駅開業と同時に横濱(高島町)-櫻木町駅間の旅客営業形態を現代人の我々から見て極めて驚異に感じるが、朝夕4往復のみの運行に限定した事からも鐵道院の真意の一端が読み取れる。
4ヶ月後の12月30日になり櫻木町駅まで電化区間が延長され電車運転を開始したが、それとて旅客営業継続を積極的根拠が存在したとは傍証に乏しい。
他方、大正7年(1918年)4月1日に横濱-櫻木町駅間の高架化工事が竣工し該痕跡は現在でも見られる。

死児の年齢を数えるの例えでは無いが、若し、関東大震災の如き予想外の事態無くば現在でも横浜駅は高島町に設置されていた公算が高かったものと推定される。
更に、平沼商店街は伊勢佐木町や元町と並ぶ横浜屈指の高級志向商店街に発展した可能性が高かったと思われる。

然し、関東大震災で2代目横浜駅は損壊被害こそ免れたものの近所の火災が延焼全焼し駅機能が一時的に壊滅する。

震災復興計画の一環として最大懸案事項として当時の内務省建設局は高島町から平沼町浅間下に抜ける新規道路建設(現在の県道横浜生田線)が計画され道路建設上に駅本屋が存在し支障する為に当時の鐵道省に対し2代目横浜駅の撤去移転を打診する。
帝都復興院は神奈川-櫻木町間の旅客営業廃止を前提とする高架線撤去をも横浜市に打診した。
然し、当時の渡邉勝三郎横浜市長は、『横浜ノ現状ニ鑑ミ到底納得デキス受入難シ』として帝都復興院や鐵道省に対し強硬に拒否姿勢を見せ、代案として北幸町の米ライディングサン石油会社所有地を横浜市が買上げ此処に新停車場設置を要求した。

此の辺の経緯に就いて国会図書館憲政資料室に現存する当時の内務省対横浜市間の交換公文書を仔細に検証すると緊迫した遣り取りが伝わる。
当時鉄道の復旧工事は最優先で進められ、全損し一番被害が酷い馬入川橋梁ですら9月6日工事着手にも拘らず、神奈川-櫻木町間の復旧工事開始が12月5日着工を見ても鐵道省が路線廃止に積極的意思を有するのは明白な事実と見るべきです。
横浜市復興会も駅移転に関し全面的に反対し移転条件として、
1)市の脊髄に相当する桜木町通と直線部を位置にする。
2)平沼町は一辺に偏し市の将来の為に海岸位置が効果大。
と結論付けていた。

結局、横浜市の要求が受容れられ、新駅設置まで高島町の現駅で営業後に北幸町付近に移転する事で合意する旨、大正13年(1924年)2月6日附答申に見られる。

因みに、最近公刊された2代目横浜駅に関する最新文献に於ける記述中、横浜駅が高島町から現在位置に移転した最大理由として、駅構内を国道が直角に交差し常に踏切が閉じていた事に拠り横浜市民をして監督官庁たる鐵道省に対する不満反発が存在し遠因だったと称する記述に就いて、然し、実際に該道路、即ち、現在の横浜生田線竣工は横浜駅が現在地に移転後の昭和4年(1929年)1月であり、日時に対する整合性が合わず矛盾する。
震災発生当時は道路自体が存在せず、故に、該記述に関する限り史実に反し、亦事実無根である。

かくて、横濱-櫻木町間は存続が決定し昭和39年(1964年)5月19日に桜木町-磯子間が開通し横浜-桜木町間を含め『根岸線』に編入されるまで東海道本線支線として存続する。

紆余曲折しつつ、現在地に昭和2年(1927年)5月24日着工し翌昭和3年(1928年)10月15日に竣工移転したのが3代目現横浜駅です。

京濱線は昭和5年(1930年)1月26日に3代目横浜駅構内から高島町に至る連絡線が竣工開通し、此れを以って戦前に於ける鐵道省横濱地区所管路線網が完成する。

然るに、3代目横浜駅開業に伴い、即ち、2代目横浜駅所在地たる現在の西区高島町一帯の衰退をもたらし、同じく、神奈川駅廃止は神奈川区青木橋一帯の凋落の原因となった。


尚、本旅行記使用の歴史的写真資料は断り無きものは全部横浜臨海公園個人所蔵品。


表紙は第2代目横浜駅本屋絵葉書
横浜臨海公園 蔵

湘南新宿ラインでふらっと葉山の海を堪能してきました!...

2010/07/30 04:07:14

天気が良かったので、ふらっと湘南新宿ラインで逗子経由、葉山の海に行ってきました!
海なし県のサイタマンでも直通列車で1時間半!!湘南の海が待っていました!!
便利になったものです!
 
今回は普通のビーチではなく、ダイビングやシュノーケリングのスポットとして有名な芝崎海岸で泳いできました。
ここは、昭和天皇陛下が新種の水生生物を発見した場所で有名です。それくらい生物の種に富んだ豊かな海です!
魚の群れに多種多様なウミウシに興奮でした!!

鎌倉覚園寺...

2010/07/30 01:07:32

 鎌倉市二階堂鎌倉宮の奥にある覚園寺(かくおんじ)は真言宗泉涌寺派の寺であり、鷲峰山覚園寺という。開基は北条貞時、開山は智海心慧(ちかいしんえ)である。建保6年(1218年)、薬師如来の眷属である十二神将のうちの「戌神」(いぬのかみ:伐折羅大将)が2代執権北条義時の夢に現れたことが薬師堂建立の端緒であったといい、その後9代執権北条貞時の時代に正式に寺院となった。本尊は薬師堂に安置されている丈六の薬師如来であり、薬師堂の薬師三尊像と十二神将像は鎌倉随一である。現存する本堂の薬師堂は萱葺き屋根に土間であり、文和3年(1354年)、足利尊氏によって建立され、堂内天井の梁の下面には尊氏自筆の銘が残っていおり、天井にも龍図が微かに見られる。元禄2年(1689年)に大修理が行われ、関東大震災では倒壊している。
 境内は国の史跡に指定されているが、撮影は一切禁止であり、1時間おきに寺のお坊さん2人くらいで境内、伽藍を案内してくれる。入山料も最近300円から500円に値上げされている。境内には愛染堂、地蔵堂、大きなやぐらの他に、鎌倉市手広から移築した江戸時代の名主の住宅である旧内海家住宅(宝永3年(1706年)の建築)があり、十三仏の説明を受ける。
 入山料が高く自由行動できないことを度外視すれば、鎌倉の寺社巡り、仏像巡りでは一番に挙げられるお寺である。
(表紙写真は愛染堂)

ひさびさの激安湯河原温泉でまったり♪行きしに見つけた湘南平塚...

2010/07/29 10:07:17

今週はマジメにおうちにと思ってたけど。。。
お出かけの虫がウズウズ。
なぜか意味もなく、見るじゃらん。
何っ!!
湯河原の青巒荘やん!
「勝負♪☆祝・80周年☆早いモノ勝ぢ●●●●円プラン」
発見!!
1回行ったことあるし、癒されるのにこのお値段。
即クリック!
クリックした瞬間プランから消えたで!
セーフ!
やっぱ、ええ温泉ですわー
何や?
五月みどりのヴィーナス?

行きしのいつもの東海道線グリーン車車内から湘南平塚七夕祭りがチラリ。
帰りに寄るしかないっしょ!
せっかくさっぱり癒されたのに何なん?この暑さと人だかりはーー!

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