CATEGORIES

こだわり
こだわり設備
こだわりメニュー
イメージ
長さ
地域

BOOKMARKS

ベッラベーラ 北千住店

ベッラベーラ 北千住店の店舗情報。店内の様子や料理内容を写真でご紹介。

華胥の夢 かしょのゆめ

華胥の夢 かしょのゆめを写真でチェック。メニューやドリンク情報を確認して準備は万全!

朝次郎 大名店 居酒屋

朝次郎 大名店 居酒屋を写真でチェック。店内の様子や料理・メニューを写真で確認できます。

八雲流川店 民芸食事処

八雲流川店 民芸食事処の詳細情報はこちらから。メニューやドリンク、おすすめレポートなどの口コミ情報も満載です。

人形町 ななお

人形町 ななおの店舗情報や店内写真、料理メニューなどの情報が満載です。

くろ○ くろまる 立川北口駅前店

くろ○ くろまる 立川北口駅前店に行くなら。事前にクーポンをゲットしてお得に楽しもう。

タベルナクアーレ Ebisu

タベルナクアーレ Ebisuのお得なクーポンはこちらから。お店への地図も掲載しています。

とらちゃん 創作居酒屋

とらちゃん 創作居酒屋でお得に食事を。ここからクーポン印刷が可能です。

三國 MIKUNI

三國 MIKUNIの詳細情報はこちら。フォトギャラリーでお店のイメージがわかりやすく掲載されています。

GIPSY KID'S ジプシーキッズ

GIPSY KID'S ジプシーキッズの口コミ情報。おすすめ情報を確認してクーポンをゲットしよう!

LINK

湘南 中国に関する美容室

一致するデータはありませんでした。

Powered by ホットペッパーBeauty Webサービス

湘南 中国に関する旅行記

横須賀線の歴史的痕跡を探す ~大船-横須賀間編 明治領歌【再...

2010/07/30 05:07:44

一般的に「横須賀線」とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちですが、実際は、大船-久里浜駅間23.9kmを称します。

帝國海軍は横浜に所在した東海鎮守府が敷地狭隘と当時横浜に雑居していた仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し茲に横須賀鎮守府が改称成立する。

然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路は1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な上に悪路で馬車通行すら難儀する状態だった為に、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代鎮守府長官中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日~大正5年(1916年)3月30日)から輸送手段改善が提議される。

更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日~大正5年(1916年)12月10日)、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)の連署で内閣に請議書を提出し鉄道設置が要請される。



国立公文書館に於いて現存する文書で、


鐵道建設ニ関スル請議書

相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌
海軍大臣 伯爵 西 郷 従 道

内閣総理大臣 伯爵 伊 藤 博 文 殿


の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が窺いさせられる。



他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、鵠沼付近で人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置して横須賀方面に分岐させる事に決定し工事が開始された。

然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。

殊に、名越隧道は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には落盤事故も発生し死傷者が生じた。

また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過剰な国権回復運動が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗円覚寺と言えども路線建設の前に例外的存在では無く寺側は有無を言わさず泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。
また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは為り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配を伴う頂点上に八幡踏切が設置された。

また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。

然して、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)6月18日に正式開通した。

然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に御臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転され此れが横須賀線運転史の嚆矢となる。

開業当初は大船-横須賀間の4往復45分運転で平均時速21.6キロだったが同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増便され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ6往復35分運転で平均時速27.8キロとなる。

横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。
然るに、明治42年(1909年)1月13日早朝、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、速度が遅かった為に死者こそ出さなかったものの多数の重軽傷者を出した。
原因は鎌倉駅担当助役が通票閉塞機を不正操作し通票を取出した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線三沢付近で同様の事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生し鎌倉列車正面衝突事故が教訓になっていない。

現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の観点で安全面から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は鎌倉駅を境に立体交差と築堤化される事で決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事着手され僅か4ヶ月で竣工した。

横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。

大船-鎌倉間 大正5年(1916年)9月13日

鎌倉-逗子間 大正6年(1917年)3月

逗子-沼間間 大正3年(1914年)8月12日

沼間-田浦間 大正9年(1920年)10月19日

田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日

また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。

また、横須賀線は大正13年(1924年)完成を目処に1500ボルト電化が決定し、そのままでは口径不足で架線吊張が困難な為に、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道口径拡大工事が実施されたが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。

関東大震災発生時、横須賀線内では鎌倉駅構内停車中の第32貨物列車や田浦駅付近走行中の第514旅客列車に脱線転覆等の被害を生じ、乗客職員に少なからぬ死傷者を生じた。

特に、横須賀線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が横須賀駅下車直後に昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒50数名の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋めになり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され猛烈な悪臭と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が飛び交う惨状を呈した。

横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀間全線で復旧工事が開始され先ず単線で復旧された。
然し、田浦-横須賀間は側面崩落や吉倉隧道坑門破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅れる。
此の辺の描写は作家 内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)に依る短編小説『進水式』の記述にそれとなく震災前後の状況が描かれている。

大船-鎌倉間 9月9日復旧

鎌倉-逗子間 9月10日復旧

逗子-田浦間 9月13日復旧

田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧


関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事は大正13年(1924年)4月に再開され翌年4月に完成する。
かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。

北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の円覚寺住職 古川慧訓、及び、建長寺住職 菅原時安、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。


即ち、

        請訓書

当地ハ大船駅ト鎌倉駅トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、円覚両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也
尚円覚寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス

文面後半から横須賀線開通の際に於ける円覚寺側の恨み辛みが読み取れる。


北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と円覚寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償提供して駅が開設された。

昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車区から京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、モハ31型のロングシートに沿線利用者の顰蹙と不評を買うが、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換される。
余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更の上、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。
また、此れと同時に、大森駅への停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は通過扱になる。

東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期は芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。
他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。
特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する状況なる。
此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、木造モニ3型荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる新形式車輌が誕生した。

昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。
因みに、此のドックが如何に大きいかは現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは第6ドック以外存在しない事からも明確である。
軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基づき大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され横須賀では信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更され、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の命運の軍艦として記憶される。
此れら対英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降させられ車内には制服憲兵が警乗した。
同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見される該当数ヶ所にはコンクリート塀が設置される。

横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車に改造すべく大井工機部で4扉サハ78型に入場改造中に海軍より2等車連結が要請され4扉化改造工事は中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。

横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車徴発され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出され乗車不可となる。
然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入させた他、3等車のサハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。
後に、昭和24年(1949年)7月30日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になるが、但し、日本人が乗車着席している状態で進駐軍の米将兵が立っている時は席を譲り2等車から退車する旨、屈辱的表記が券面裏に記述されていた。

終戦直後から激増した乗客と故障が原因で激減した列車本数とに拠り、横須賀線は列車本数の確保すら困難な状況下に在った。
電車がモーター故障の為に自走不可能になり、已む無く、電車を電気機関車EF53型機に牽引させ最低運転数を確保する。東京の国電では他では中央本線国立-浅川(現 高尾)間で実施し、有余の車輌の整備を実施する。

昭和25年(1950年)サンフランシスコ講和会議で我が国の主権が限定回復した頃、三鷹電車区配置の3扉セミクロスシートのモハ51型が関西に転出し、代りに、大阪からモハ42型、及び、モハ43型が田町電車区に転入し横須賀線で使用される。
同時に、モハ32型は身延線や飯田線用に転出する。
また、此の年に、現在も伝統を残す車体の塗装が横須賀線色に変更される。

久々に横須賀線専用車として昭和26年(1951年)1月に3扉セミクロスシートのクハ76型、モハ70型、及び、2等車サロ46型が新製される。




表紙は第1円覚寺踏切から円覚寺境内を見る

白熱コーギー&ミケランジェロ×プロファイル 稼動中...

2010/07/30 05:07:40

稼動中

注)表紙写真はミケランジェロの手ではありましぇん。念のためー。
手元にローマ写真がないので、中国は鼓浪嶼(コロンス島)・フランスはリヨン、ルーヴル美術館などなど。
それっぽいストック写真を代用いたしておりまする~。

夏休みのイタリアひとり旅むけて、地道なテーマ学習開催中。

その名も、『ミケランジェロ×プロファイル』!

いろいろ面白い資料がありましたので、そゆの中心に出発までひたすら更新中心の、いままでやったことない手法で旅行記にトライしてみようと思います。

前述したように、写真自体も更新予定♪

出発が完結という、不思議なコトになっちゃいますけど、一緒に楽しんでいただければ幸いです。

そんでは、スタート☆

2010年7月、東京での写真展終了、皆さんに謝謝、謝謝。...

2010/07/30 05:07:16

東京都汐留の共同通信本社ビル3階<ギャラリーウオーク>で一ヶ月近く続けてきた写真展が、7月21日(水)無事終了した。
私が会場に居たのは、最初の4日間と最後の3日間だけだったが、入場者数に関してはイマイチ物足りない結果に終わる。
1日平均100名以上、足を止めて観て貰いたかったのだが・・・。
特に近くのオフィスが一斉に休む土・日の入場者数が、少なかったようだ。
新聞社・テレビ局に案内ハガキを送らなかったので、これも仕方ない。
ただ単純に計算して、1時間にわずか5名の入場者でも10時間で50名、28日間で1400名に達するのだ。
トータルで見れば、決して少ない数ではないだろう。
その多くは、階上のホテルに宿泊中の旅行者達だった。
中には、私の写真の前で記念撮影をするインド系の旅行者グループも居たし、熱心に観る欧米の若者旅行者グループも居た。
携帯でわが写真を写す旅行者も、多かった。
家族一緒に写真を指さしながら観てくれた方も、車椅子を押しながら丁寧に観てくれた方も居た。
来場いただいた方々には、中国雲南省、少数民族の住む地の魅力を伝える事が出来たと思う。
ブログのアクセス数は多く、「写真展のお知らせ」は6月に583回、7月に215回、「写真展、始まる」は7月に294回を記録した(7月23日現在)。
このサイトの会員の皆さんからの反響が予想以上に大きかった事も、うれしく思う。
個展案内のページには、いつも以上に多くの投票(86票と68票)を頂いた。
私が送った個展案内には、北海道から沖縄まで150名近くの方々(海外からのメ-ルも一部あった)が返事をくれたが、その多くが個展開催へのお祝いと案内状への感謝の言葉だった。
実際に来場しその感想をメールや掲示板に書き込んでくださった方も、30名近かった。
その中にはご自身のブログに、わが写真展の紹介をして下さった方も4,5名いらっしゃる。
皆さんの温かいお言葉の数々に、心から感謝したい。
お陰さまで、東京での20年ぶりの個展を終えることが出来た。
会場を無料で貸していただいた共同通信本社の皆さんにも、感謝したい。
受け付けの女性や、ガードマンの皆さんにもお世話になった。
7月19日から20日まで、会場でお会いした方の写真をこのページに展示させていただく。
会員の皆さんはプライバシーの観点から、失礼ながら後姿を撮らせて貰ったので、了承願いたい。
22日(木)夕方、長距離バスと列車に揺られ疲れて自宅に戻ると、掲示板にshanghaiさんと黒鯛釣師さん、kyokosa-nさん、airpentaroさんから写真展の感想が書き込まれていた。
翌日には、エイコーさん、翌々日はべーこんさんからも感想が届いた。
その後shuchanさん、babyananさん,yasalさんからも届く。
深く感謝したい。

湘南新宿ラインでふらっと葉山の海を堪能してきました!...

2010/07/30 04:07:14

天気が良かったので、ふらっと湘南新宿ラインで逗子経由、葉山の海に行ってきました!
海なし県のサイタマンでも直通列車で1時間半!!湘南の海が待っていました!!
便利になったものです!
 
今回は普通のビーチではなく、ダイビングやシュノーケリングのスポットとして有名な芝崎海岸で泳いできました。
ここは、昭和天皇陛下が新種の水生生物を発見した場所で有名です。それくらい生物の種に富んだ豊かな海です!
魚の群れに多種多様なウミウシに興奮でした!!

ひとり旅巡行記 [750] ♪初夏の花物語♪おしゃれな花たち...

2010/07/30 04:07:02

■国営備北丘陵公園/さとやま展示館♪初夏の花物語♪

 中国地方の“どまんなか”広島県庄原市にある中国地方唯一の国営公園「国営備北丘陵公園」訪問記です。

【本日の巡行地】
・鯉が窪湿原 岡山県新見市
・国営備北丘陵公園 広島県庄原市

Powered by 旅行のクチコミサイト フォートラベル