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湘南に関する旅行記

横須賀線の歴史的痕跡を探す ~大船-横須賀間編 明治領歌【建...

2010/02/08 05:02:48

横須賀線とは現代人たる我々から見て東京横浜地区と古都鎌倉や海の町逗子とを結ぶ郊外電車のイメージを抱きますが、実際には大船-久里浜間をして正式名称とする路線です。


明治期に横須賀線開設の際に横須賀に所在した帝國海軍横須賀鎮守府に鑑み、日清戦争開戦逼迫の空気の中で当時の海軍大臣西郷従道(天保14年、1843年6月1日~明治35年、1902年7月18日)候が内閣に提出した公文書で正式要請した様に海軍サイドから路線設置に関して強い要請が存在した事実は否定し得ません。
その為に路線選定にあたり最終決定されたものは明治初期に全国的に吹き荒れていた廃仏棄却の空気未だ覚めやらぬ当時故に、静岡県内興津清見寺境内でも見られる様に名刹円覚寺境内を強行突破すると言う現代人たる我々から見て到底考えられもしない暴挙とも言ふべき現実を突き付けての開業で、後年、昭和初期に鉄道省が北鎌倉駅設置の際に円覚寺側から強烈なしっぺ返しを受ける結果を招きます。
また鎌倉駅開設当初は他駅同様、地上駅でしたが江之島電気軌道、現在の江ノ電が大かづら前まで開業するにあたり横須賀線と平面交差を嫌った当時の逓信省鉄道作業局が立体交差としたもので昭和40年代半ばに改築されていますが現在の滑川橋梁は此の時に設置されたものです。

横須賀線は三浦半島を横断するが故に建設された路線故に短距離ながら隧道が多い事が特色の1つであり、明治末期の車両の大型化と共に大正末期に大船-横須賀間の電化が決定し程ヶ谷-戸塚間の清水谷戸隧道と共に明治期に完成した隧道では口径容量不足が問題となり建築限界拡大が決定されました。
此の為に大正11年(1922年)より該当隧道付近に臨時信号所を設置し単線運転をしながら隧道口径拡大工事と電化工事とを進めている最中に関東大震災に遭遇します。

関東大震災が発生した際に震源地に近い横須賀線は甚大な被害が生じました。
横須賀線内施設では鎌倉田浦両駅舎が倒壊、鎌倉滑川橋梁破壊、吉倉、田浦、七釜各隧道切取部崩壊等が生じ、他方、田浦沼間間走行中の旅客列車が激動で脱線転覆し死傷者が発生しました。

更に、横須賀駅11時50分に定刻到着の普通列車から下車した乗客500名余中、修学旅行で横須賀軍港見学に訪れた静岡県立静岡高等女学校(現静岡県立静岡城北高校)教員生徒約200名余が下車後、横須賀駅裏の港町見張山下で点呼後に昼食を摂るべく集合中、震災発生と同時に裏山が大規模に崩壊し駅に洋傘を忘れ取りに戻った女学生1名を残し全員が土砂の下に埋没圧死し、他の災害救助を最優先とした為に現場は9月半ばまで放置され、残暑厳しい季節とあいまって土砂の上を大量の蠅が飛交う惨状を呈していた。

関東大震災の発生で電化工事は復旧工事を最優先とした為に中断されたが、東京-國府津-小田原間と共に大正14年(1925年)12月13日より蒸気機関車の前に電気機関車を連結して運転する電蒸運転が開始される。

震災復旧工事が一段落し小川平吉(明治2年、1870年1月2日~昭和17年、1942年2月5日)鉄道大臣が就任中に中央本線淺川(現高尾)-甲府間電化が決定され直ちに工事が着工しました。
中央線で所要必要となる電気機関車は東海道横須賀線に於いて使用中の英国デッカー社製ED型機関車のギァ比を山岳路線用に交換、且つ、投入する事となり、その穴埋めとして横須賀線の電車化が決定されます。

昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線に電車が投入されましたが、然し、余りに計画を早急過ぎた嫌いが如実に現れ、新造車が間に合わず、当時の京浜線用3扉モハ31型を応急的に使用しなければならなかったが、翌年より横須賀線専用2扉電車モハ32型群が完成次第漸次在来車と交換され、茲に横須賀線は戦前に於ける黄金期を迎えます。

当時の電車や貧弱な線路構造では現在の平成期よりも運転時間が長かったのではと素朴な疑問を抱くものですが、東京横浜間を比較して当時は川崎駅を通過していたものの現在と異なり大森駅に停車して当時の方が現在より2分速く、寧ろ現在の方が時間がかかっているのが現実です。

電車運転を開始した頃より東京市民に馴染み深い従来の鮫洲、大森、川崎などの海浜地域は軍事産業の勃興で煙突が林立する工業地帯となり海水浴には不適格とされ、その代替地に選ばれ脚光を浴びたのが逗子です。
此の為に夏期シーズンともなると横須賀線電車は早朝より超満員を呈し、大宮、中野、松戸等から臨時電車が運転され、健康促進を理由に軍も海水浴を奨励した為に戦時中にも拘らず継続され、終戦直前直後を除き昭和40年代半ばまで見られた横須賀線の夏の風物詩と化した感があった。

昭和10年代ともなると戦時体制強化から帝國海軍横須賀鎮守府が存在する横須賀では軍事施設が急増します。
又、昭和13年(1938年)には当時の海軍省で超軍機軍艦大和型戦艦1隻を横須賀で建造する事が決定し、また、作戦行動中の軍艦や軍港内部を望見させぬ為に田浦横須賀間線路の軍港側に連続してコンクリートブロック塀が建築され電車内から横須賀湾内が見えなくなり現在でも該痕跡を残します。


表紙の写真は円覚寺境内を通過する湘南新宿ライン用231系直通電車。

横浜線の歴史的痕跡を探す ~東神奈川-八王子間編 明治領歌【...

2010/02/07 11:02:21

横浜線は一昨年開業100周年を迎えました。


明治期から昭和前半まで我が国最大の輸出物と言えば「生糸」です。
当時、生糸は東北北海道沖縄方面を除き日本本土各地で生産されておりましたが、国内外でも高評価で1等品と認定されていたのは、長野県産品と群馬県産品でした。

件の物は製品化された上で外貨獲得の重要物資として横浜港から主に北米へと輸出されます。
群馬県産品は群馬から横浜までの輸送ルートが、日本鐵道(高崎→品川間)・官設鐵道(品川→横濱間)と単純で運賃も安価で済んだのに対し、長野県産品は、官設鐵道(長野県内各駅→八王子間)・甲武鐡道(八王子→新宿間)・日本鐡道(新宿→品川間)・官設鐵道(品川→横濱間)と数社に跨る事から運賃が嵩み群馬県産品との競走上、後手にならざるを得ず、明治30年代後半ともなるとその差が歴然として深刻な状況を招来します。

此の為に八王子から横濱に向けて鉄道建設を願う声は日に日に高まったものの、明治政府は横濱線が政府建設予定路線だったにも拘らず、日露戦争の結果、戦費収納を優先とし財政に余裕が無く、故に、民間の出資に依り横浜-八王子間の鉄道会社を設立する方向に固り、紆余曲折の後、明治35年(1902年)8月23日に茲に正式に『横濱鐡道株式会社』が設立され、直ちに鉄道運営に必要な機関車、軌条、機材類を米フレザー商会横浜支店を仲介して発注されます。

当時は現在の如くインターネットで簡単に入手すべく可能な時代では無く、船便でのやり取りの結果、オーダーするものであり、軌条に至っては、明治39年(1906年)製造になりました。

明治41年(1908年)9月23日に東神奈川-八王子駅間全線が開業します。

当時は横濱鐡道が将来の政府建設予定線である事を理由に早くも明治43年(1910年)4月には政府が借上げて運営される事となり運賃が鐵道院路線と同額となり通し計算が可能になった事から利用者にとってメリットは大きいものだったと想像されます。

横濱鐡道開業の頃より国内知識層が軌間拡大論が展開されます。

即ち、明治政府は鉄道建設開始にあたり英国人担当者より日本人担当者に対し軌間採用設定に就いて質問した処、件の日本人担当者は業務知識絶無で内容を理解も吟味もせず単純に狭軌を採用する旨、回答した為に、爾来、我が国で軌間と言えば狭軌を採用した事で此れが今日でも主流となります。

然るに、輸送上に関し狭軌(1067㎜) 対 標準軌(1435㎜)はワイドな標準軌採用の方が何かと有利たる事は自明の理であり、明治期後期ともなると国力に余裕が生じると輸送量不足と拡大化とを求める声が国内に台頭します。
政府としても広軌化論を無視放置する訳にもならず、取り敢えず借上げ運営中の横濱鐡道原町田(現 町田)-橋本駅間施設を改築して走行試験を試行する事となり、大正6年(1917年)5月23日に件の区間を3線化、若しくは、4線化工事完了を以って実験を開始します。
広軌化改造工事に拠る結果は、蒸気機関車の広火室化の容易、燃費向上、速度抵抗軽減等々、狭軌より標準軌の方が約32パーセント増の効果が確認され、広軌化に拠る経済効果は大なりと判定されたにも拘らず、政変の為に西園寺内閣は総辞職し改軌案賛成の民政党から対立する政友会が政権を獲得した為に大蔵省に依る予算計上まで完了していたにも拘らず広軌化計画は頓挫します。

政友会の主張は「広軌化改造に要する諸費用を以って地方諸路線新設を優先すべし、云々」との意見を開陳し反対しましたが、即ち、政友会の主張に沿って建設された地方路線は此の時期から昭和初期にかけて全国に及び、件の路線の殆どが当初から人口希薄地域を通す赤字路線であり、戦後のなり此れら路線を継承した日本国有鉄道の財政を逼迫させ破綻させた大赤字の萌芽たる地方赤字ローカル線問題は此れら路線建設の結果です。
即ち、政友会の主張と裏腹に実際には国益の為の路線建設などでは無く、現実は政友会代議士の露骨な利権追求の為の票田建設と言ふ方が正しく、昭和初期に政友会大物衆議院議員で長野県選出の小川平吉(明治3年、1870年1月2日~昭和17年、1942年2月5日)は田中義一内閣の鉄道大臣在任中に私鉄路線建設申請に関する免許状乱発交付で露骨な贈賄行為を反復させた事で世に言ふ『私鉄疑獄事件』を起し、小川は鉄道大臣経験者と言ふ親任官職にも拘らず司法検察当局に逮捕拘留され裁判に付され大審院『現在の最高裁判所)で有罪が確定し実刑に処され位階剥奪されるが如く此の手の政友会代議士は国益より利権に走狗する行為が露骨で『我田引鉄』を得意とします。

政友会の後塵直系組織たる現在与党の○○党が、度々の利権報道と司直強制捜査で先般も贈賄容疑で元公設秘書が逮捕拘留されるが如きは、此の悪しき伝統が根をおろしているものと考えるを得ず、大所高所から国民の目線をして誠に遺憾な行為といわざるを得ない。

結局、標準軌採用は見送られ、本格的採用は昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線開業まで留保され日を見る事はありませんでした。

標準軌改築工事が実施された同年10月に政府は横濱鐡道全線を正式に買収させ政府資産とする事に決定し、茲に横濱鐡道は正式解散し、官有たる『鐵道院横濱線』として新たなる出発をします。

国立公文書館に保存されている当時の公文書本文に政府の本心が現れている。

因みに文中の「新宿線」とは現在の山手線です。


横濱鉄鐵道借受ノ件

別紙内閣総理大事請議横濱鉄鐡道借受ノ件ヲ審査スルニ右ノ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決セラレ可然ト認ム


指令書

横濱鐵道借受ノ件請議ノ通   明治四十三年二月三日(印)

運第壱百弐拾壱号

横濱鐵道借受ノ件

横濱鐵道ハ官設鐵道東海道線ト中央東線トノ間ニ位シ新宿経由ノ官設線路ニ対シテハ競争ノ捷路タルヲ以テ之ヲ政府ニ借受ケ東海道ト中央東線トノ連鎖トシテ管理スルコトハ独リ新宿線ノ輸送上ニ於ケル負担ヲ軽減スルノミナラス東海中央二線ノ運輸ヲ圓満ナラシムルモノニシテ頗ル得策ナリト認ム且同會社カ既ニ許可ヲ得タル横濱港内ノ延長線及出願中ノ海面埋立ト本院ノ計画ニ係ル横濱港ノ海運連絡ト相待テ其ノ効用ヲ完フスヘキモノナルニ依リ
其等ノ権利ヲ継承シテ工事ヲ遂行スルノ必要アリト信テ大略左ノ条條件ヲ以テ横濱鐵道會社ト契約ヲ締結セントス

横濱鐵道株式會社社長 朝田又七殿

内閣総理大臣 侯爵 桂太郎


当時の山手線は現在の様に複々線で客貨が分離されてはおらず複線の状態で電車を頻発運転させながら貨物列車を運転させる等、既に飽和状態だった。
また、政府としても横浜北港埋立構築は必要不可欠であり、横濱鐵道借受は政府にとって正に一石二鳥効果を得る事が可能だった事が垣間見えます。

即ち、借与中に於ける民有所有物たる動産不動産諸施設に対する改造変更は、現財物に対する変更行為と言ふ、法的矛盾を生じせしめ、当時の内閣法制局の指摘を根拠に買収を決定させたものです。

後年、昭和初期に政府が鉄道省東京-大阪間3等運賃と富士身延鉄道富士-甲府間3等運賃がほぼ同額だった『富士身延鉄道』を我が国に於いて筆頭高額運賃軽減をはかる目的で借上運営中の諸設備向上を理由に鐵道省が改良工事に着手せんとして前述の指摘を受け工事中止をせざるを得ない状況が現出し、此れ以降、政府や鉄道省は民間鉄道会社を民設公営の厄介で中途半端な借上経営を止め買収実行の形態へと変化します。

殊に、昭和12年(1937年)7月2日に日華事変が勃発以降は、戦時軍事輸送体系円滑化の強化を目的として戦時買収が活発化します。
或る日、政府から会社に突然、代表者を鉄道省本省に招致出頭せしめる電報が送達され、本省に出頭した担当者は否応無く買収を受諾させられる事態が常態化します。
買収条件は一定期間売却禁止の戦時国債交付と被買収企業の解散禁止。
然も、戦後になり我が国の超インフレ経済に依り売却期限が到来した戦時国債の証券価値は紙屑同然となり、故に、各方面から買収資産変換と無償払下運動が勃興しましましたが、大蔵省は解決済との頑な態度に終始し、被企業側は鐵道省や運輸通信省にタダ取りされたと言ふ根深い恨みを残す事になります。


東神奈川駅は鉄道院東海道本線と横濱鐡道乗換駅として鶴見-神奈川駅間に横濱鐡道が建設し完成と同時に鐵道院に無償貸与されたものです。

よく横浜市民ですら東神奈川駅が存在するのに何故、(本)神奈川駅が存在せぬのかとの疑問を抱く様ですが、本来、神奈川駅は明治5年(1872年)7月10日に開業していた為に、「神奈川駅に対する東の駅」という意味合いで東神奈川駅と命名されたものです。
然し、昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転し横浜-神奈川駅間が180メートル弱しか離れていない為に前日の10月14日限りで開業以来56年間の歴史に幕を閉じた為に東神奈川駅だけが残ると言う変則的事態になった次第です。

鉄道省は東海道本線横濱-國府津駅間、横須賀線大船-横須賀駅間、熱海線國府津-小田原駅間を1500ボルト直流電化を決定し、大正12年(1923年)に工事着手をします。
然し、工事途中に関東大震災に遭遇し電化工事は一時頓挫する事になりましたが、電化に関する要因教育研修を兼ね当時の横濱線に再び実験線としての栄誉を賜り、東神奈川-原町田駅間の電化工事を大正13年(1924年)6月15日に着手し同月26日に完成させると言ふ記録的突貫工事で完成させ直ちに試験運転が開始されます。

東海道本線電化工事が完了し東京-小田原駅間等で試運転が本格的開始の前に横濱線電化諸施設は本来の用途目的を達成させた事から遊休化します。
横濱線沿線で地元有力者が此れら設備を見逃す筈も無く、再三にわたり鉄道省に対し件の区間の電化諸施設の活用策として横濱線列車を蒸気機関車から電気機関車牽引に変更要求が提議されます。
然し、昭和初期に鐵道省は電気機関車の国産化を成功したとは申せ、当時の電気機関車1輌に於ける製造価格は大型蒸気機関車1輌と比較しても際立って高価な存在であり、概ね、EF52型電気機関車1輌の製造費とC51型蒸気機関車2輌分に相当し、当時の鐵道省の予算内の新造は困難な状態であり、且つ、当時の電気機関車保有数に余裕も無い事から鐵道省が横濱線に電気機関車を導入するなど論外的見解と言ふべきであり、実際に不可能だったに相違無い。

然るに、大正末期頃から東京圏内に於いて1500ボルトに拠る電車運転が成功裡を修めると横濱線のも電車運転の気運が盛上り、昭和7年(1932年)11月23日より概電化区間に於いて電車運転が開始されます。
此の時に横濱線用として田町電車区より横須賀線を代表する半鋼製電動車モハ32型と池袋電車区より木造制御車クハ17型が東神奈川電車区に配転され2輌編成で運転されます。
モハ32型には貫通幌が設置されていたのに対しクハ17型には幌が無くモハ32型の相手無き幌がフワフワと浮き上がりながら運転されました。
またクハ17型は老朽木造車故に走行中は車体がギシギシと唸り菱形に変形しながら走るものの、電化しても1時に1本の運転は変わりありませんでした。

また残りの原町田-八王子駅間には昭和8年(1933年)10月1日からガソリン動車キハ41000型が導入され運用を開始します。

昭和12年(1937年)7月7日に勃発した日華事変の頃より横濱線を取巻く環境は隣接地域の小田原急行鉄道(現小田急電鉄)、相模鉄道と共に戦時体制に組込れてます。

即ち、当時の社会情勢は帝國陸軍に拠る施設拡充を行使したくとも人口密集地たる東京府内に於いて最早困難性を極める事態を招来し府内に存在する諸施設を東京近郊に移転させる必要性が生じ、殊に、陸軍士官学校が東京市谷台より相模原に移転した事も手伝い急に此の地に軍事施設が盛況を極めます。
特に、陸軍士官学校卒業式に御臨席あらせられる昭和天皇御乗の御料車を含む6輌編成の御召列車が八王子経由で原宿-原町田駅間、若しくは、原宿-相模鉄道本線相武台下駅間に運転され、原町田、相武台下双方の駅に簡易ながら御召列車専用ホームと関係諸施設が構築されました。
他方、横濱線沿線に軍事施設、軍需工場の進出に拠り旅行数が鰻登り的激増を見せ、東神奈川-原町田駅間では、従来の2輌編成の電車が1時間に1本牧歌的運転で事足りていたものが、朝夕は4輌編成15分間隔となり急に慌しくなって来ました。

原町田-八王子駅間のガソリン動車の運転では各車輌に運転士を乗務させ先頭車運転士のブザー合図に拠り各車での単独運転させる為に最大3輌迄の編成しか組成出来ず、又、横濱線全線が単線である事も重なり、輸送上の障害を来たす為に、昭和16年(1941年)4月5日に残り原町田-八王子駅間も電化され横濱線全線で電車運転されます。
また同日に陸軍省の要請に拠り駅間が長かった淵野辺-橋本駅間に相模原駅が開設されます。
相模原駅開業に因み、同名駅が存在した小田原急行鉄道所属駅相模原駅は、鉄道省から開業を直前に重複を避ける為に『小田急相模原駅』に改称を命じられます。

大東亜戦争中に於ける横濱線沿線最大の被害は、昭和20年(1945年)5月29日白昼堂々と実行された『横浜大空襲』に依るもので、横浜市内では東急電鉄湘南線黄金町駅、及び、神奈川区反町付近から東神奈川駅付近に至る地域の被害が他を圧倒し、東神奈川駅、及び、隣接する東神奈川電車区は米空軍B29重爆撃機から投下された1トン爆弾2発、及び、焼夷弾数十発が命中した為に、電車区では留置中の電車14輌全車と全施設が全焼全滅し、東神奈川駅では東急電鉄京浜線仲木戸駅付近で焼夷弾に拠り発生した火砕流が東神奈川駅構内に流れ込み、退避中の駅長以下駅員数名が火砕流に巻き込まれ、全員行方不明となり遺体の一部すら発見されなかった事から此れら被災職員に対し戦時失踪者扱が認定され全員殉職扱いされました。
東神奈川駅は西口跨線橋、東部信号所、及び、ホーム擁壁部を除き此れ以外の全施設設備が被災全滅し、復旧に相当期日が見込まる事から、京濱線電車は駅復旧まで営業扱を中止され全列車が東神奈川駅を通過して運転されます。
横濱線は東神奈川駅構内が徹底的に破壊され発着が不可能となった事から現在の大口駅南側に相当する地点に古枕木を積重ねた臨時乗降場を設置し、横濱線電車は此処で八王子方面に折返し、利用客は新子安駅まで徒歩連絡で当座を凌ぎます。
横浜大空襲で当時大口に存在した日本大学専門部横浜校舎が全焼し、終戦直後に日吉と三島に移転転出した跡地が日本大学から無償提供を受け、此れを活用して昭和22年(1947年)12月20日に大口駅が開設されます。

大口駅が戦争の申し子的感が無きにしも非ぬ存在だったにも拘らず、此れ以降、戦後の横浜線は既設駅間に雨後の筍の如く新規駅建設に明け暮れます。

現在の横浜線は純然たる通勤通学路線です。

然し、驚く勿れ、探せば歴史的遺産はアチラこちらに残ってます。

現在、起点の東神奈川駅第2番ホームには横濱鐵道開業当時の側壁の関東煉瓦八王子工場製煉瓦積や上屋支柱に使用されている古レールは横濱鐵道開業当時の発注品の成れの果てです。


表紙の写真は東神奈川駅第2ホーム上屋支柱に残る横濱鐵道創業時に米国カーネギー社から輸入使用されたレール群と横浜線用205系電車。

北鎌倉でまったり散策...

2010/02/07 01:02:49

湘南新宿ラインで北鎌倉へ♪

のんびりとまわりの景色を楽しみながら散策してきました!

☆散策ルート☆
北鎌倉駅→円覚寺→去耒庵(ランチ)→東慶寺→浄智寺→
~銭洗弁財天ハイキングコース~銭洗弁財天宇賀福神社

あじさいの季節は終わってしまったけれど、
ところどころにまだきれいに咲いているものもありましたヾ(^▽^)ノ

鎌倉の石碑巡り(1)-源氏山界隈、化粧坂、大船界隈...

2010/01/29 05:01:44

 鎌倉には戦前に建てられた石碑が多くある。それを巡ろうと出かけた。鎌倉市教育総務部教育センターのWeb:鎌倉市GreenNet「鎌倉の石碑」(http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouikuc/sekihi18.html)を頼りに、ここに掲載されている84の石碑を順次巡った。結論から言うと、このWebでは石碑の所在地の番地や時には町名までに間違いがあり、これを頼りに全部巡ることはとても出来ない相談だ。実際に鎌倉市教育総務部教育センターの者が石碑の所在地を確認してWebに掲載したものと思われるが、まるで小学生以下の仕事ぶりだ。少なくとも、鎌倉町は昭和14年11月3日に鎌倉市になっているのであるから、これ以降の昭和15年3月や昭和16年3月に建てられた石碑が鎌倉町青年団ということはありえようか。石碑には鎌倉市青年団と彫られている。碑銘が正しくないものも何碑か見受けられる。税金を払っている鎌倉市民は抗議すべきかも知れない(。電話番号:0467(23)3000 Fax番号:0467(24)5569 内線番号:2465 メールアドレス:kenkyu@city.kamakura.kanagawa.jp)。実際に行かれる場合には鎌倉史跡碑事典(http://www.kcn-net.org/sisekihi/menu.htm)(83石碑)で調べてからの方が確実であろう。
 日蓮上人の所謂「辻説法」の旧跡を示す石碑も、今も大路の2箇所にある。「日蓮大聖人辻説法之旧地」(本興寺、建立年は不明)(大町の本興寺門前)と「日蓮上人辻説法之阯」(鎌倉町青年団、昭和11年)(小町2丁目)である。当時は大町、小町ともに鎌倉の繁華街であり、そこの辻で日蓮上人が説法したことはあっただろう。どちらとも言えない。しかし、「俊基朝臣墓所」(鎌倉町青年会、大正6年)と「玉縄首塚由来」(玉縄史蹟顕彰会、昭和43年)と「稲村崎」(鎌倉町青年団、大正13年)と「主馬盛久之頸座」(鎌倉町青年団、昭和10年)と「勝長寿院旧蹟」(鎌倉町青年会、大正6年)の5つは建てる必要のないものである。墓前に立つ大きくて立派な「○○三○日野公墓所跡」(明治17年)と古くて(建立年は剥離して判読できない)立派な「玉縄首塚碑」、公園の石碑群の中心となる古い「稲村崎碑」(明治27年)の石碑があり、「主馬盛久之頸座」の横には古い「盛久頸座」の石碑(大正8年)があり、「勝長寿院旧蹟」(大正6年)の横には古い「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)があるからだ。また、「玉縄城址」は2つあり、何やら「大森貝塚」碑のようだが、団地内にある新しい石碑(鎌倉友青会、昭和31年)は記載内容に乏しい。これに対し、諏訪壇(城祉)登り口にある石碑(鎌倉同人会、大正15年)の方が古く、記載内容もしっかりしている。したがって、「玉縄城址」(鎌倉友青会、昭和31年)は蛇足である。石碑建立当時に「事業仕分け」があったならば、蓮舫議員でなくても「2つはいらないでしょう。」となる。付け加えると、平成12年に建てられた頼朝墓前の「頼朝公顕彰碑」(源頼朝会)は新し過ぎよう。
 全てが公開されている訳ではない。「偏界一覧亭旧跡」は瑞泉寺裏山にあるが、鎌倉石の階段が磨り減ってしまったとして公開中止になっている。実際に公開中止に到った理由は、この史跡がいたずらされたことがきっかけのようだ。一人の心ない行為が鎌倉を訪れる人たちの楽しみを奪ってしまう。
 現在、石碑がないものもある。「和賀江嶋」(鎌倉町青年団、大正13年)は昨年秋の台風で倒壊し、市文化財課で修復中である。
 民家の敷地内にあるものがある。「永安寺址」(鎌倉町青年団、大正15年)は造園業を営む植政さんの庭にある。「荒居閻魔堂阯」(鎌倉町青年団、昭和13年)は民家(借家)の庭端に建っている。これらは民家の人に断ってからでないとならないのは言うまでもない。また、「玉縄城址」(鎌倉同人会、大正15年)は女子校(清泉女学院(中・高校))の敷地内であり、校門でその旨を告げ、校内受付で申請書をもらい、その書面に必要事項を記載して許可を受ける必要がある。
 石碑の中には立地場所が悪いものがある。「西御門」(鎌倉町青年団、大正15年)と「桑ケ谷療養所跡」(長谷上町文化会、昭和37年)は道路上にある。いつ車が衝突するとも限らない。「桑ケ谷療養所跡」は新しいものだが表面には車であろう、こすれた痕が見られる。壊れてからでは遅い。道路から奥に引っ込めてほしいものだ。
 最も重要なことは、これら大正6年以前にも鎌倉には石碑が建てられていることだ。「○○三○日野公墓所跡」(明治17年)と「玉縄首塚碑」と「稲村崎碑」(明治27年)、「盛久頸座」(大正8年)、「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)は上述したが、他にもある。目に付いたところでは、光則寺石碑、御霊神社石碑(大正2年)、大江広元墓所石碑、毛利季光墓所石碑、「明治天皇閲兵之処」石碑(八幡宮)(明治6年)、「鉄道轢死之碑」(明治42年)、「復興寄師芳君之碑」(海蔵寺)、「竺僊梵僊和尚顕彰碑」(葛原ヶ岡ハイキングコース)(昭和15年)、「道路開墾記念之碑」(稲村ガ崎)(昭和13年)、「ローベルト・ゴッホ碑」(稲村ガ崎)(大正元年)、関東大震災慰霊碑」(浄泉寺)などが挙げられる。
 一番気になる碑は、寸松堂(鎌倉市笹目町5)前の「これより東海道」の石碑である。昭和11年に有形文化財に指定されている店舗(木造3階建て、九輪が上がる)を建てる際に、庭にあった石碑が邪魔になったので店先に移したものだそうだ。この裏には「塔之辻」(鎌倉町青年団、昭和4年)があるが、道路は交差していない。かつては辻であり、道路傍には道標があったのであろう。中砥にするような石の材質にも見え、丈夫そうだ。かつては藤沢から鎌倉を経由し、朝夷奈切通を越え六浦に至り、走水から房総に渡る「古東海道」があった。その道標である可能性もある。それならば400年以上前のものであり、貴重である。
 まずは、JR北鎌倉駅から葛原ヶ岡ハイキングコースを辿り鎌倉山に至り、化粧坂を下ってJR鎌倉駅へ行くコースと、大船界隈から湘南モノレールで湘南町屋駅に行き、湘南深沢駅から湘南江の島駅に出て、江ノ島駅から江ノ電を乗り継いで稲村が崎に到るコースから始める。
 湘南江の島駅はホームが4階にあるために、遮る建物もなく、富士山が綺麗に見えたのだが、窓ガラスが汚れたり、鉄芯が入っていたりして写真に収めることができなかった。湘南モノレールで訪れる多くの観光客のために、この素晴しい光景を観光資源化してほしいものだ。
(表紙写真は東慶寺の「夏目漱石参禅百年記念碑」石碑)

2010年初日の出...

2010/01/22 07:01:04

2010年の初日の出を見に湘南ひらつかビーチセンターにいってきました。

早朝5時30分頃にセンターに着いたけど、近隣の駐車場はすでにいっぱい。海岸にも多くの人がつめかけていました。

太陽が出てきたとき、少し雲が多くあったけど無事に日の出を見ることができた。

皆さんにとって、良い年でありますように。

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